雑記 関係性とは?

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 なんでも判り合える関係、というものが存在し得るのかなと考えている。
 これは私の日常生活の話ではなくて、何か書こうと思った時のフィクションの話だ。フィクションだから好きに書けば良いと思うけど、フィクションの中にあるリアルを大切にしたいと私は思っているので、それを考えている。

 

 私は「なんでも判り合える関係」を相手に求めているその段階であまりにも傲慢で恥知らずでは?と思うので個人的には書きたくない。
 つまりそれは「私の事をなんでも判って欲しい」という我儘でしかなく、更には「貴方の事はなんでも判っている」という思い違いが二重に含まれていて、それを信仰できるならちょっと一度診てもらった方が良いのではないかと思うからだ。
 そもそも何もかも理解するという事は土台不可能であって、自分さえ自分の事を100%判っているとは言えない。自分の事が100%判っているなら人間はたぶん未来に期待しないし不安を抱える事もない。自分のできる事が完璧に判っているならこれからできるようになる事もできないままである事も充分予測できる筈だからだ。期待とは自分の想像の埒外にあるプラスのものを突然自分が得られる幸運を思う事だし、不安とは自分の想像の埒外にあるマイナスのものを突然自分が押し付けられてしまう不運を思う事だ。
 だから自分でない他人に自分の事をなんでも判って欲しい、というのは妄言でしかない。妄執でも良い。

 

 そうすると、関係というものは「判っている事を判っていないかもしれないと不安に思い」ながら「判らない事をそれで良いと許容する」事にその根源があるように思われる。
 だから、なんでも言う事がイコール信頼の証ではないと思うし、そして逆の方がより強く言いたいのだが、なんにも言えない事が不信の証拠ではないと思うのだ。言えない理由をどこまで突き詰めて考えて、それを書き切るかが我々のすべき事ではないだろうか。

 

 私はひとりのキャラを時(これをAとする)、キャラBに言える範囲はこれだけで、キャラCに言える範囲はこれ、キャラDに言える範囲はこれ、という風に決める。勿論そこの情報量はまちまちだが、例えばBには20の事が言えて、Cには10、Dには5の場合、Aからそれぞれへの信頼度がB>C>Dであると見られてしまってはたぶん怒る。そう見えないように書くし、そう見えないように書いていない私の落ち度だと理性は反省するけど、それはそれとして読解力が足りてないんじゃないかと感情で怒る。それは情報の質を一切無視した話だし、もっと言えば質さえどうでもいい。Aが他者に言える事がそれだけある、というだけの話だし、問題はその他者に言える部分をトータルした時、残された「誰にも言えない部分」がAの要たりえる根幹であるからだ。

 

 さっきから私は何にこんなに怒っているんだ? 判らない。でも何か私を昂ぶらせる話題なのだと思う。

 

 私は関係性が好きなので、それをしつこく書く。別に書くのは好きではないが、書けてない事が腹立たしいのでとにかく書く。取り留めのない事を書きながら第七戦役をやっていたら終わったのでここまでにしようと思う。

 

 それではまた。