センシティブな栞と苛烈な感情目録

 

 

 センシティブな【ノンフィクション】を書くと、あるいは共感を呼び、また他方には反感を買う。なんにせよ目立って、多くの人の目に触れる機会が多くなり、感情が感情を呼んで雪だるま式に大きくなる。それが悪目立ちすると炎上と呼ばれる。センシティブに書けば書く程その傾向が強くなり、当たり障りのないものを書くと、誰の共感も反感も買わないので、目立たない。埋もれてしまって、そのままになる。

 そういう訳で、私達の時代は、センシティブなもので溢れ返っている。感情が極限まで可視化されて、氾濫している。だから、「もっと感情を持たなくちゃ」と思わされるような時代になっている。「もっと敏感にならなくちゃ」「もっと他人の痛みを知らなくちゃ」「もっと自分の痛みを訴えなくちゃ」、私達は傷付けられる事を望んでいる。当人はそのつもりがなかったとしても、自他共の感情に鋭敏になるという事は、そういう事だ。

 

  どうなんだろう。

 他人の痛みなんかに、付き合わなきゃいけないんだろうか。

 自分の痛みなんかに、同情してあげなきゃいけないんだろうか。

 

 痛かったというのは過去の話だ。過去の話なので、概ね事実である。少なくとも「これから痛くなると思う」未来よりはよっぽど確実だった事実だ。事実は事実として捉えたら良いんじゃないだろうか。

 私達は学校で歴史を習ってきた。なんの為に習うのかは各々に答えがあるとして、その是非も置いといて、その時私達は一度も、「この過去の残骸たちに共感や反感を持ちなさい」とは言われてこなかった。そういう事があったのだな、と了解しておく事を求められた。痛ましい戦争があった。おぞましい差別があった。悩ましい国家競争があった。それらを知って、私達は「●●年に××戦争があったんだね」と覚えておけば問題はなく、「どうして××戦争についてそんな冷淡でいられるの。△△名もの死傷者が出て、云々」なんて事で非難される事はなかった。

 了解しておけばそれで充分だったからである。

 痛みというのはそういうもので、過去というのはそういうものだ、と私は思っている。過去の私があって今の私があるし、今の私の集積が未来の私になるのだから、そこに断絶はないし、一続きの存在であるのだけど、それでも過去の私は過去の私でしかない。過去の私が酷く傷付いた言葉があったとして、それが今の私に同じだけの痛みを以て飛び込んでくるとは思えない。それが過去の価値なのだ。学習の糧となる全てである。

 私はただ了解しておけばよい。過去の私がこういう事で傷付きました、喜びました、怒りました、楽しみました、軽蔑しました、大爆笑しました、そんな目録があればよい。それだけで事足りる。そこに他者の共感も反感も関係はない。私は私なのだし、その私を形成する上で他者の存在はとても大事なものだけど、けれど決して何一つとして決定権を持たない他者だ。私の事は全部私が知っておけばよくて、私の事は全部私が決めればよくて、私の事は全部私が責任を持てばよい。

 

 私は物凄く短気なので、日常において本当にすぐ怒る。こんな年齢にもなってこんな事で怒るのか私はと自分でも思う。でもそれはあくまで私の感情なので、他人に付き合わせる意味はない。だから別に口に出さない。態度にも出さないようにしているけれど、私はまだまだ人間修行中なので出ているかもしれない。特に仕事では絶対出さないようにと思っているけど、どうだろう。出ているかもしれない。精進したい。そうして、後で、自分の感情目録に入れておく。「◇◇が◎◎だったので凄く怒った。原因は★★」、なんていう風に。

 それで良いんじゃないか。過去の私はあんな事で怒ったのか、それは可哀想に、辛かったね、などと甘やかす必要は全くない。どうせ過去の私はもういないのだ。ここにいるのは今の私でしかなく、今の私は怒っていない。ザッツオール。

 

 私は小説を書いているけどどういう訳だか何かを書こうと思い立ったから書いているだけで、誰かの為ではないし(強いて言うなら私の為だ)自分の気持ちを他人に知ってもらいたいからではない。あ、キャラの尊さとかは知って欲しい。CCCのBBからFGOのBBへの変遷とか知って欲しい。

 でも別に、私の中にセンシティブなものがあって、それを見せたいからじゃない。あなたがもし私の書いた某かを見てセンシティブになったならそれはあなたの感性の豊かさの賜物であって、でも結局それはあなただけのものだ。私には関係がない。

 

 日記というのは普段とりとめもなく思っている事をだらだら書いてよいので不思議なものだと思う。私も日記には不慣れなので、大好きな枕草子をお手本にしている。なんの手本にもならない。清少納言に教養があり過ぎる。

 だから結局私はだらだら書いている。別に誰かに何かを伝えたい訳でもなく、自分の頭の中にあるごちゃごちゃしたものを整理するには書いてみるのが一番良いので、書いて整理しているだけだ。部屋の掃除みたいなものである。何か確固たる信念と崇高な理念を持って掃除をする事などあまりないように、私にとってこの日記も同じようなものだ。だから好きに受け取って欲しい。あなたにとってセンシティブな日記になってしまったなら、まあそれはそれだ。「ふーん」くらいに思っておけば良いんじゃないだろうか。自分の中の感情との付き合い方なんて、その程度で良いと思う。

 

 気楽に生きていきたいけれど、気楽に生きるには色々工夫しないといけないので、気楽に生きる為の工夫を毎日考えている。それに忙しいので、自分の中のめんどくさい感情とは、そこそこに付き合う事にしている。

 気楽な生き方の妙案があったら教えてください。

 

 それではまた。