信用ならぬ調子者の、トンチンカンな音色の話


 少し、思った事を書こうと思う。
 けれど実際は、思った事など決して書かない方がお得なのだ。

  言葉には広がりがある。幅があって、深さがある。立体的な構造をしている。ただし、境界線はかなり曖昧である。たとえば「お昼頃」という言葉は、一体何時何分から何時何分までを指すのか、状況によって話し手によって場所によって、全然変わってくる事からも容易に想像できる。
 境界線が曖昧では困る事もあるので、言葉には決め事がある。定義付けとも言える。それが「意味」であって、たとえば「昼」という言葉には「日の出から日の入りまで」という定義付けがされている。でもやっぱり、夏の日の入りより少し前の夕暮れを昼とは呼ばない人はいるだろうし、日の出と言うと朝と昼の境界はどこになるのか、という事は誰にも判らない。ただ、決め事として、そうしておこう、そっとしておこう、とされたもの達を意味と呼んだ。
 約束事はあまり細か過ぎない方が守り易いので、あんまり細かくない。もし「怒る」という言葉が「人から急に殴られた時に湧き上がる感情」と定義されてしまった世界にいたら、「人から急にツバを吐きかけられた時に湧き上がる感情」には名前がないし、「人から急に殴られた時に湧き上がる」【むなしさ】については、そんな感情は存在しない事になる。約束事が細か過ぎない理由はここにある。

 

 だから、思った事を文章にする、という行為は、常に境界線との戦いになっている。言葉とは常に無限のグレーである。灰色を示す日本語はたくさんあって、「灰色」はその全てを指せるのだが、私が今思い浮かべる灰色は桔梗鼠色でも、あなたの思いかべる灰色は利休色かもしれない。私の思う桃色とは#f0908dでも、あなたの場合では#fef4f4かもしれない。そういった事が絶えず続いているのだ。終わりはないし、答えもない。
 私が一生懸命文章を書いて、ヤァこれはリッパなものができたじゃないか、と思っても、読まれる人にとってそうではない事が往々にしてあるのは、様々な要因があるにせよ、これも一端を担っている。私がウンウン唸りながら考えて、どうにかこうにかようやっと捻出した言葉達も、ひとつ残らず私の想定外に受け止められて、てんで違う印象を与えてしまう事だって、茶飯事だ。

 

 その所為で、思った事は言わない方が絶対お得なのだ。
 思った事をどんなに丁寧に書いたとしても、そしてあなたにどんな類い稀な文の才覚があったとしても、言葉の境界線でことごとく敗退し続ける可能性は決して排除できない。あなたの真摯な言葉が唾棄すべき低俗な文意と取られる事は、あなたの責任ではないが起こり得るし、あなたにはどうしようもない事で、どうこう言っても意味がない。
 それだけのリスクを背負ってまで発するべき言葉とはなんだろうか。そうしてまで発したい思いとはなんだろうか。そんな価値があるのだろうか。そんな理由があるのだろうか。そんな意義があるのだろうか。
 私は正直、ないと思う。絶対に黙っていた方が良い。得られるものが、支払ったリスクにどうやったって釣り合わないからだ。

 

 それでももし、あなたが黙っていられないと言うのなら。あるいは私にそれでも勝手に発してしまうお喋りな口が、手があるとするのなら。
 私達は努力をしないといけない。そうして覚悟をしないといけない。自分が行ったことごとくの緻密な努力が、相手に正しく伝わる為に入念に、気を狂わせそうな程に気を遣った言葉達が、無残に取り散らかされてひとつも正しく伝わらない事がある事を、覚悟しないといけない。そしてその時に、決して相手の所為にしてはいけない。自分を判ってもらえなかったと、悲嘆する事をすっぱり切り捨てる努力をしないといけない。そうして次に同じ事を書くような時に、今度はどう表現したら少しでも正しく伝わるか、また前向きに考え直す努力をしないといけない。
 そうでなければ、それらができないと言うのなら、私達の言葉は一生取り散らかされる。私達は何度も、ちり屑になった私達の言葉と思いを片付け続けるだけで終わってしまう。

 

 私は境界線を信じていない。自分の書いた言葉が正しく伝わるというナイーブでロマンチックな可能性を夢見ない。私はいつも悲嘆と共にあって、一生懸命書いた事の、精々半分くらいを理解してくれた人が、読んでくれた人の半分くらいいてくれたら儲けものだな、と思っている。言葉とは、それくらい信用ならないものだ。


 信用ならないこの調子者を、それでも私が重用するのは、理由がある。境界線に、滲みがあると思っているのだ。言葉の持つ境界線上に、私の置きたい色がある。それが線上でじわりと滲んだ時、それを見た人が、「あ、ここにこんな滲みがある」と感ずる。そうしてその滲みに、それぞれの模様を思い描くのだ。花を見るかもしれないし、人の顔を見るかもしれないし、蝶を見るかもしれないし、雲を見るかもしれない。その滲みは私の意図しないものであって、ましてやなんらかの形があらかじめ与えられたものではないのだけど、その花や顔や蝶や雲が、見た人の心にふと居場所を得たりする。
 そんな事ができるのは、言葉だけだ。信用ならない癖に、時折奇跡のように良い仕事をするのだ。
 私は、それを夢見ている。

 

 以上です。