ゴールのないものにそれでもゴールを与えるとして(だから全く意味のない仮定)

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 ついこの前、ドールズフロントラインをやり始めた。私感としては艦隊これくしょんとしんけん!!を足して割ったようなゲームシステムで、どちらも触れた事のあった私にはシステムを理解する事は比較的易しいゲームだった。それもあって、一週間以上続いている。
 このドールズフロントライン、世界観が退廃的で、なんだか厭世的で、その空気がもう実家のような安心感がある。ゲームを触りながら、日本版ではまだリリースされていないストーリーや世界観などを一通り理解したのだが、えらく勢力関係がややこしいし、包み隠さずえげつない。不必要に陰惨ではないが、最低限に凄惨ではある。

 

 私は物語の世界観を把握するのが好きだ。下手すると、作品自体を楽しむよりも好きだ。設定集やwikiの文章をひたすら読み込むのが好きだし、台詞集はずっと見ていられる。それで、このゲームの世界観を見ていて少し思った。

 

 人間と道具の関係性において、最上のゴールとはどこなのだろう。

 

 このゲームに出てくる可愛い女の子達は戦術人形であって、戦う為に生まれてプレイヤーの指示に従う。プレイヤーに従う理由は明確で、彼女達は自分達を使用する人間に従うのが普通だからだ。当たり前にインプットされている上下関係に則って、彼女達『道具』はプレイヤーであり私達である『人間』に唯々諾々と従う。
 前提を疑う事は簡単だ。人形達は初めから道具であって人間に使われる存在であるという大前提に異を唱えるのはあまりにも容易い。ただ、そういう話ではないと思う。臨床医療の話をしようとして「そもそも現在の人類が精々100年しか生きられないのは製造上の欠陥である」と言うのと同じで、そこからは何も始まらない(遺伝子工学の話なら始まるだろうけど)。だからここではその前提の通りに考えたいと思う。
 人形は生まれた時から人間に逆らい難いようにできている。だから彼女達にとって、人間に従う方がエネルギー消費の少ない、自然な事だ。彼女達が指揮官に好意を寄せるのだとしたら、それは人間が人間に好意を寄せる事よりもずっと、ずっとずっとエネルギーの少ない結果でしかないのだ。だからたぶん、人間と同じ感覚でそれを受け取ってはいけない。人間が人間を嫌うより、あるいは人間が人形を嫌うより、人形が人間を嫌うのは難易度の高過ぎる事であり、それは彼女達の意志や性能では克服し難い事象なのだろうからだ。
 指揮官と人形との間に、人間同士に見るような恋愛関係が結べるだろうか。私にはなんだかそれが土台無理なように思える。同じような姿をして、同じような感情プロトコルを持ち、同じように話すとしても。それをもし人間側が「結べた」と感ずるなら、全くの勘違いや甚だしい誤解であって、あるいは言うに及ばない傲慢なのではないか、と思える。不可能ではないのだろうけど、ほとんど現実的ではない程に、その可能性を無視しても良いとされるくらいに、困難な事なのではないかと思う。
 とはいえ、人形達は個々の性質があって特徴がある。個々の性能があって特色がある。人間側もそうだろう。であれば、一概に「人間と道具」という括りでひとつのゴールを探そうとするのも、また雲を掴むような話であるようにも思われる。

 

 こんな事を思ったのは、ドールズフロントラインの世界観でSSを書いていたからだ。人形達の事を書きたいから、その中心にいる人物を描いた方が判り易いだろうと思って、私はプレイヤーたる指揮官に人格を持たせる事にした。輪郭を与えて、中身を埋める事をした。それで、「この人は一体どこへ行くのだろうな」とふと思った為だ。

 

 私は関係性大好き人間なので、何かにつけ関係性を発掘したくなるし、そこには普遍性もありながら特異性もあって、何かと何かが某かの連関を持つ時、それはまさに固有の関係性でありながら我々の見出す色は同じなのだと感じる。
 だから、きっとその指揮官も、その人なりに、人形達と関係性を築き上げていくのだろうと思うけど、今の私には与り知らぬ事である。

 

 そんな事を考えながらつらつら書いているのがこれ。

togetter.com

 ちなみにこれ、指揮官に名前が付いていたり突如「黙示班」なんて名前がついているけど、私なりにちゃんと理由と意味がある。

 

 以上です。