脳死についての映画を見た


 なんかあえてぼんやりしたタイトルをつけた。そうでないと、むやみに検索に引っ掛かっても嫌だなと思ったからだ。映画を見たのだ。それで、ぼんやりと感想を書こうかな、という気持ちになった。(ここから先、普通に物語の最後まで言及しています)

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 私はアマプラのレンタルで見た。TSUTAYAでも貸し出しをしていると思うのでそっちも良いと思う。

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 目の前にある死体を死体と認められない場合、その死体を生者の棺として扱って良いのか?という話だった。脳死になってしまった6歳の娘(瑞穂)を、しかし奇跡を信じて肉体だけを保全し続ける家族の物語である。
 だんだん愛が狂気と化していくのが母親なのだが、しかし、母親である薫子は常に受動的であって、この薫子が狂気に転落していったのは全て外部要因によるものだ。だからこそ、周りは彼女の『愛』を「間違っている」と糾弾する事ができない。薫子の母親であり瑞穂の祖母である千鶴子は自分の監督不行き届きで瑞穂を脳死にさせてしまったという負い目があるし、薫子の夫である和昌は自分から横隔膜ペースメーカーやBMI技術によって瑞穂の身体を動かす術を教えたのだからという負い目がある。薫子の『愛』が間違っている場合、間違わせたのは周囲なのだ。だからこそ彼女を止める事ができない。薫子は最後まで、瑞穂は生きていたという幻惑に囚われている。
 ここで興味深いのが、薫子の発想は幾らか古代エジプトにおけるミイラの製造理念と通ずる点があるところだ。薫子は「いつか瑞穂の目が覚めた時に問題なく元気に生活できるように」その肉体を保全する。ミイラもまた「肉体から離れていった魂が還って来て問題なく第二の生を送る事ができるように」作られた。現代的思考から考えれば、当然ミイラは死体である。到底生者ではない。しかし瑞穂はどうだろうか。心臓その他臓器は問題なく稼働しているし、横隔膜ペースメーカーによって自発呼吸ができ(それは脳信号ではなく)、BMI技術によって外部の働きかけに応じて肉体を動かす事ができる。肌は瑞々しく、ただ眠っているように見えるし、実際、作中ではその肉体も成長している。彼女の意思は永遠に喪われているが、それ以外は遺されている。瑞穂の肉体を「到底生者ではない」とは断言しにくいのだ。
 それぞれの人物が瑞穂の生死をそれぞれなりに解釈しようとしているが、その解釈もばらばらである。当然、医師である進藤は「おそらく脳死」であると言う。ここでの「おそらく」という表記が難しいところなのだが、これは脳死判定ができない(臓器提供意思がない限り脳死判定をする事は法的にできない)ので、100.0%の確率で死んでいるとは言えないから「おそらく脳死」としか表現できないだけなのだ。故に、進藤の言葉は決して「生きているかもしれない」とイコールではない。
 母である薫子は「瑞穂は生きている」と言う。父の和昌は「生きているようには見えない」。弟の生人は「お姉ちゃんが生きてるって嘘なんでしょ」。いとこの若葉は「瑞穂ちゃんに生きていて欲しい」。祖母である千鶴子のはっきりした言葉はなかったが、「奇跡を願ってる」という発言からして若葉寄りの「生きていて欲しい」に近しいものと考えられる。
 薫子は最後まで瑞穂の生を信じていた。信じているからこそ瑞穂を殺そうとした。殺人罪が認められるならば殺す寸前まで瑞穂は生きていた事が逆説的に証明される。法によって、国家権力によって瑞穂の生が証明される。だから殺そうと包丁を突き出す薫子を止めたのは、千鶴子であり和昌であり若葉であり生人であった。
 千鶴子は「他人にどう言われようと瑞穂ちゃんを守るって決めたんでしょ」。和昌は「瑞穂は生きているとは思えない。それでも殺さないでくれ。俺の娘を殺さないでくれ」。若葉は「瑞穂ちゃんに生きていて欲しい。瑞穂ちゃんが溺れたの、私の代わりだから」。生人は「(虐められるのが嫌で姉は死んでいると伝えていた)友達に言うよ。お姉ちゃんは生きてるって、言うよ」。つまり、全員から薫子の意見が採択され、『瑞穂は生きている』と全員が認めたのだ。
 けれど、その後、容体が急変した瑞穂の身体を、脳死として臓器提供を薫子は認める。何故だろうか。薫子は瑞穂の生を認めてもらえたすぐ後で、瑞穂の死を受け入れるのだ。
 ただ、この間に、薫子が夢か幻覚かによって、瑞穂を見る。瑞穂に「お母さん、ありがとう。幸せだったよ」と言われて、抱き締める。そこで返す薫子の言葉は、「行くのね」なのだ。この後の瑞穂の葬儀にも、瑞穂が亡くなった日としてその夢の日を記載している。
 つまり、薫子は最後まで、瑞穂の生を信じていた。しかし、その生を自分の都合で引き延ばす事を止めにしただけなのだ。あるがままに、瑞穂の生死を瑞穂に委ねる事を良しとした。薫子は瑞穂の死を受け入れたのではなく、自分や周囲が何を言おうと、瑞穂の生死は瑞穂自身が持ち得るものであると認めたと読み取れるのだ。
 ここに、母親の強さがあるように見えた。作中では狂気的に描かれる薫子であるが、薫子は最後まで決して自分の信念を曲げていない。誰がなんと言おうが、瑞穂は生きていた。作中の薫子以外の全員が、完全に全員が、瑞穂の脳死を死と認めている。認めていないのは薫子だけで、徹頭徹尾、薫子だけだった。薫子が瑞穂の死を確認したのは脳死した瑞穂の手を握った病室ではなく、「幸せだったよ」と過去形で話す瑞穂を抱き締めた瑞穂のベッドの上だったのだ。
 生きている事も死んでいる事も、周囲は好き好きに言う。脳の死を個の死と捉えるかどうかという現代医療の進歩が、更にその境界線を曖昧にする。結局、作中、誰も、脳死をどう捉えて良いかについて、答えを出せていない。最も瑞穂の生に懐疑的であった和昌でさえ、進藤には「死んだと感じるのは、心臓が止まった時」と語っている。
 そうして、瑞穂の心臓は宗吾という少年に引き継がれる。映画では彼が胸に手を当てるシーンで終わっているが、小説では「きっとこの心臓の持ち主は幸せだったに違いない」といった旨で締めくくられてる。恐らく、その締めが、祈りであるのだろう。瑞穂が幸せであったのかどうかなんて判らない。瑞穂の知覚や意思その他全ての精神性は、6歳の事故の時に一切喪われている。「幸せだったよ」と語った瑞穂はあくまで薫子が見た夢の中の瑞穂であり、「幸せだったに違いない」と感じる宗吾は心臓をもらっただけの他人である(ドナーはドナー元の情報を手に入れてはいけない筈だし)。だから登場人物全員の、そして東野圭吾の、更には読者視聴者である我々の、「幸せであって欲しい」という祈りであるのだろう。

 

 総じて良い映画だったのかな、と思った。この一家が富裕層だったからこういう事になったんだよな、とか、星野と彼女のくだり要る?とか、展開がドラマティカル過ぎない?(あまりにもリアリティレベルが強いと読者や視聴者が没入し過ぎてしまうのでそれを防ぐ為か?)など思うところはあるものの、話の筋は通っていて、『誰が死を決めるのか/いや、誰にも決められない』というテーマも良かった。
 あんまり映画をたくさん観ない私だが、これはおすすめできる。