人殺しの人命救助

 

 私は「芸術」という概念と言うか、「存在」と言うか、なんせ芸術そのものが好きなので、それについて考える事を時々する。それはこの世からひとつもなくなっても私達の実生活にはなんら影響を及ぼさない余剰そのものであって、しかし余剰そのものであるからこそ、それはたぶん心を育てるのだ。

  芸術論を学んだ訳ではないし、美術館に足繁く通う訳でもないし、音楽だってそれなりに流行りのものしか知らないし、小説書きの真似事はするが読書家ではない私なので、私はそれらのひとつひとつが好きと言うよりは、それらが集まって織り成してきた足跡のような総体、さっきも言ったけど芸術そのもの、概念自体が好きなんだろうと思う。

 昔、若い画家のインタビューで、どうしてその道を選んだかを聞かれた若い画家が、「画家にならなければ刑務所に行くか、野垂れ死ぬだろうと思い、刑務所に行ったり死ぬよりは画家になったら迷惑をかけないし私も楽しいと思った」と答えていて、その時私にとってとても腑に落ちる言葉だったし、今でもその画家の考えは正しい事だと思っている。

 たぶん、そういう人達は、本当に、刑務所に行かなきゃいけなくなるのだ。全うな人間でいる為の対価として、彼ら彼女らは自らの魂を切り売りする過酷な道を選ばざるを得なかったのだろうと本当に思う。

 思うに、そういう人達には自身の中に鬱屈とした、あるいは爆発的なエネルギーがあるのだけど、適当に発散しては、それはあまり良い方向に向かないエネルギーなのだろう。しかし「普通に」生きていくには彼らの心は少しばかりざらついていて、ただ呼吸をしているだけでも空気と摩擦してざりざり言うのだ。ざりざり言いながらエネルギーが溜まる。いつかそれに耐えきれなくなったら、その人はナイフを握ってどこかに飛び出すんだろう。なんだかそれはよく判る。「なんだか判らないけど」「そうしたいという強い感情があった訳ではないのだけど」「気が付いたらこうなっていたのだ」と、血に塗れたナイフを茫然と眺める事になるのだろう。

 けれど人は社会に生きる生き物だから、折り合いがつかないなりには他人に迷惑をかけないでいようとして、だからナイフの代わりになんとか吐き出そうとする。人を殺さない為に何かを創ろうとする。それは全く当人の問題で、当人の魂の生存に関わる重大な仕事だ。そうして生まれる魂の創出が、思うに芸術というものの本質なんじゃないだろうか。結局それは巡り巡って他人の為になるかもしれないけど、そんなつもりで創られた作品ではない。当人が社会に支払う人間としての生活の為に、魂を削り出してなんとか形になったものなのだ。でも、それもいばらの道だ。魂を削る事は容易ではない。けれど溜め込んでいてはエネルギーに喰われる。喰われない為に吐き出さないといけない。自分が潰れる前に、自分を切り出さないといけない。

 そういう芸術が、人の心を育むと言うのだから、それは本当に素晴らしい事だ、と思う。誰の為でもない、ただ当人が生きていく為に必死で吐き出した血痰のような魂が、同じようにエネルギーを抱える人間のエネルギーを減らしたり、あるいは減らさずとも付き合い方を教えたりする。人を殺さない為に編み出した生存代償が、人を救ったりする。もしかしたら誰かを殺したかもしれない手が、誰かを生かしている。

 芸術とは、そう在って欲しいとも思う。

 前にもブログでした話だけれど、私もそういう思いが根底にありながら色々と文章を書いているので、やっぱり私は私の為にしか書かない。私は上記のような大層なものを抱えていないけれど、それでも私は私の生存の為にしか書かない。

 でも、もし、私の文章があなたの某かを癒したなら、それは本当に嬉しい事だ。私の生存にも意味があったという事だ。できれば私も誰も殺さずに生きていけたら良いなと思うし、もっともっと我儘を言えば、誰かを生かす手伝いができたら、それに越した事はないからだ。