キャラをえがくという事

 

 

 とは、どういう事なのだろう?

 

 

 とりわけこれは文字媒体における話だ。私は棒人間しか描けないのでイラスト技法はよく判らない。あまりにもよく判らないのでイラストが描ける人の事を私は現代の魔法使いだと思う事にしている。魔法使いと言っても地味な薬草集めとか入念な準備をして魔法の練度によって丸1日とか場合によっては数ヶ月とかそれ以上をかけて詠唱をして通常魔法やら大規模魔法をする人達だと思っている。ラフ、下書き、線画、色塗りと同じ線を何度も重ねて描くのだからこの時点で既に文章とは相容れない。我々は基本的に一度書いた文章は使わないのが宜しいからだ。

 今日は文字媒体において一個体のキャラをえがくとはどういった事なのだろうという話をしたい。私はこれについては一旦、「その根幹を成す軸をえがき続ける事」だと話したい。ただ、実際己自身もそうだと思うので翻って考えてもらいたいのだが、果たして自分とは常に一定の存在であっただろうか?

 10年前の自分と5年前の自分と1年前の自分と1ヶ月前の自分、果たして同じ事を聞かれて同じように返すだろうか? 生活を送る生き物である以上、周囲の影響を受けて人間は日々変わっていく。細胞だって生まれた時ともう何一つ同じではない。

 だから先の言葉に加えて言うならば、「周囲の出来事に合わせて少しずつ変化したり変化しなかったりする根幹の軸を追い掛けてえがき続ける事」ではないだろうか。そしてこれが根気の要る作業になる。まず過去のリサーチから始まり、現在との連関を考えつつ変化の軸を解釈し、また未来へ続く変化を予想する。そうなるとキャラを取り巻く全てを想定しなければならない。そのキャラに少しでも影響を与えそうな事象全ての変化も考えつつどのような影響を与えるか考えていかねばならない。キャラがひとり増えるだけでこの作業は倍になるのではなく自乗される。頭がパンクする。でもそれをしないではキャラの行動ひとつひとつに意味が持たせられない。意味のない行動を繰り返すキャラは死んでいるも同然になる。生かす為には自乗して増え続ける情報を整理しては増える情報をまた整理する作業に戻るしかない。キャラとの対話は概ね情報量との戦いである。

 そこで捨象が大切になってくる。キャラに確固たるキャラを与えつつ支離滅裂で無作為な造形になってしまわぬよう、何を残し何を捨てるかという作業も必要である。そして実際、何を残したかよりも、何を捨てたかが重要なのだ。でもそれは作品にされている以上見えない。残ったものの集積が作品だからだ。この辺りが小説の上達しにくい理由のひとつではないかと推測している。作者がある作品ひとつを書く時、その作者すら無意識にしている取捨選択の後の、捨て去られどこにも残らなかったそれらこそ存在し得ない宝の山なのである。

 

 私は映画や本などの娯楽を積極的には取りたがらない性質なので、たまにそれらを得ようとする時、自分を分離するようにしている。ひとりは純粋に何も考えず作品を楽しむ自分であり、ひとりは作品の構造から何がそれを面白くさせているのかを考える自分である。そうして見終わった後に「××はこうだったからラストが映えたんだなあ、しかし▽▽はもっと◇◇でも良かった、●●の台詞はあまりに突拍子もなく必要なかった、☆☆は私には要らないと思えたけれど後の主人公の台詞にかかっていると思えば必要だったかもしれない」「それはそれとして大変面白かった」となる。

 捨て去られた部分は存在しない部分であるのだし、存在しないものを学ぶ事はできないので、残されたものから得ていくしかない。

 

 だから、キャラにおいても文章においてもストーリーテーリングにおいても、「何を書かないでいるか」を意識する事が重要であるように思われる。ただ、書かないにしても、書かない事によって描写する場合もあれば、書かない事によって余韻を持たせる場合もある。ただこちらは高等技術になりそうなのであまり考えなくて良さそうだ。

 結論として、タイトルに対する私の答えは「何かをえがかないでいる事」だと思う。

 

 それではまた。