小話

誰という訳でもない誰かの話。

...

 

 ドライブしようぜ、と車の鍵を手に笑う彼女の頬は殴られた青アザがそのままだった。ひん曲がったその指で?と言わず、良いですよ、と読みかけの本を閉じる。読みかけなのに栞を挟まないなんて初めての体験だ。
 見た事もない知らない車の助手席に乗り込んで、真っ暗の国道の果てを探そうとした。長いトンネルはオレンジの光が点滅するみたいにちかちかして眩しかった。車は他にほとんどない。車はどんどんスピードを上げていくし、彼女は意気揚々と煙草を吸うし、ラジオの音量は最大でうるさいし、普段なら溜息をつく筈の私は可笑しくて笑っていた。
 それにしても締め切った車内では煙い。だから窓を開けて、読みかけの本のページをべりべりめくってくしゃくしゃにして投げ捨てた。カール・マルクス資本論が細切れになって夜の道路のゴミになる。「良いのか?」、彼女が言った。
「駄目です」
「駄目なのかよ」
「でも良いんです」
「どっちだよ」
資本論がゴミになりました!」
 そりゃ良い、と彼女は笑った。もう二度と、一生開かない本なんか持っていてもしょうがないのだ。しょうがないから、捨ててやった。ゴミは捨てた方が良い。「これも捨てろ」と投げて寄越されたのは彼女の財布だった。中にはくしゃくしゃのお札がいっぱい入っていた。ところどころ汚れている。
 一枚一枚ちぎってびりびりにして細かくして、車内にばら撒いた。「バッカ、邪魔だよオイ」、彼女は楽しそうだった。窓から手を出して、財布をひっくり返して、小銭は道路にぶち撒けられていた。割れた瓶、空き缶、煙草の吸い殻、注射器の転がった道路に相応しい。相応しいゴミと思われた。自分の財布も同じようにした。私の財布には彼女ほどのお金は入っていなかったから、今度はライターを借りてカードを燃やしては捨てていった。
「学生証出てきましたよ」
「燃やそうぜ」
「そうしましょう」
 彼女はいつになく上機嫌で、最近は不機嫌な顔ばかりだったから、私は嬉しかったのだ。折角の綺麗な横顔も腫れて酷いものだったけど、この際贅沢は言えない。
 顔を殴られるのと心を殴られるのはどちらがむなしいのだろうと考えて、そんな事を考える方がずっとむなしいと判るので、考えない事にした。私達はたぶん時代に愛されなかったのだ。ついでに大人からも愛されなかった。
「運転上手いですね」
「だろォ? 初めてとは思わねえよな」
「初めてなんですか? よくそれでそんな迷いなくアクセル踏めますね」
「そりゃそうだろ」
 それもそうだ。私が馬鹿な事を聞いた。私達にブレーキは要らない。
 どこへ向かうのか判らない盗難車はアクセルだけを頼りに獣道を進んでいく。自分達がどこにいるのかとうに判らなくなっていたが、私にそんな事が判ったためしはないのだ。資本論は表紙だけになってしまったので窓から捨てた。
 もう捨てるものがないように思われて、それが怖くて、上着を脱いだ。上着を窓から捨てた。靴を捨てた。帽子を捨てた。時計を捨てた。靴下を捨てた。シートベルトを外して、下着を脱いだ。精液まみれの汚い下着を窓から捨てた。
 私はほとんど泣いていた。もう捨てるものがないように思われた。だから次は私を捨てないといけなくなる。
「まだだ」
 いつも通りの、不機嫌な声だ。
 あなたの声。煙草臭い、あなたの大嫌いな父親と同じ匂いのする声。
 私達はかなしいごっこがしたかった訳じゃなかった。みんなつらい事があるからしょうがないと言われる事に飽きてしまった。つらいと認めたくなかったし、かなしいとは認めたくない。だって今こんなに楽しいのだ。人生で一番楽しい。私達を虐げる何もかもは黙っていて、私とあなただけがいる。
 あなたの掴んだ私の右手首が痛い。爪が食い込んでいる。そんな風にしなくたって窓から飛び降りたりはしないのに。
「     」
 名前を呼ばれる。
 そうだ、最後はあなたが良い。


 おとなになどなりたくはない。


 唇を重ねるのは気持ちが悪い事だから、私達は手を繋いだままでいた。大人のような真似をしたくないのだ。
 山道をぐんぐん上がっていく。猛スピードで駆け上がる。私達はそうやって生きるのだ。こんな世界に義理などない。
 目の前に道がない。カーブは曲がりきれない。だってあなたの両手は私にあるから。


『昨夜未明、××市△△にて少女2人の遺体が発見されました。遺体発見現場には大破した自家乗用車があり、この乗用車は数日前より盗難被害に遭っていた車とされています。××県警は――』